やさしいは作れない


私はここ数年で、事あるごとに「自分はつまらない人間だ」と自嘲的に告白するようになった。もちろん、真剣な顔でそう言うのではない。あくまで冗談として言う。だが、私は本当に自分のことをつまらない、言い方を変えれば、空っぽな人間だと思っている。


それではそんな自分を変えたいかと聞かれれば、それほど強くは思わない、と答える。自分の薄っぺらさに気付いているなら、それを変えたいと思うのが自然だ。しかし、そう思わない。このことは、私の告白癖と無関係ではないように思える。


普通、自分のことを「つまらない人間だ」と評するような人はそれを打ち明けない。そう言われるまで相手はそう感じていないかもしれないし、わざわざそうすることで何か利点があるとも思えない。ただひたすらに不利な選択である。


しかし、なぜか私はそれを告白するようになった。したがって、このように考えるのが妥当である。私は、告白することで何かを得ている。それは何か。思うに、誠実さのような価値である。


私は自ら「つまらない人間だ」と告白することで、「それを素直に認められるほど誠実な人間だ」と思いたいのだろう、と思う。


私は子供の頃、太っていたし背が低かった。それゆえ、友人から容姿をいじられることがあった。しかし、私はそうしたいじりに抵抗するのを早い段階で諦めてしまった。イジメというほどでは無かったし、みんなが笑っているならそれでいいと思った。そうして、自らそういうキャラとして振る舞うようにすらなった。思えば、この時からすでに奴隷だった。このようにして、自尊心のない状態が普通になった。自分は「劣っていて当たり前」だった。


その頃のことで、未だに覚えていることがある。おそらく小学五、六年生の頃に、私は「そうだ、自分は優しい人として生きていこう」と決めた。周りの友人はサッカーが得意であったり、勉強が得意であったりした。そのような中で、私も自分らしさを求めたのだ。しかし、そんなものは無かった。だから捏造した。「優しさとは何か」という問いに対する答えを持たないまま、私は優しい人になることにした。


しばらくはそれで上手くいった。私は、多くの友人から優しさを評価されるようになった。次第に、私は「自分は優しい人間だ」と確信するようになった。


しかし、数年前に幻想は破れた。私は、あることをきっかけに、自分は少しも優しくなどなかったと気付いた。それどころか非情だった。私は優しかったのではなく、一般的に優しいとされている行為をまるでカードを切るように行なっていたにすぎない。そして、それは他ならぬ自分らしさのためだった。そう気付いた。


途端、自分らしさが雲散霧消した。後には何も残らなかった。私は、自分のことをつまらない人間だと思うようになった。そして、この話は始まりに戻る。私はそれを告白するようになった。


私は変わっていなかった。変わったのは手口だった。私は結局、優しさとか誠実さとか、そういうものに縋るしかなかった。


先ほど、そういう自分をそれほど強く変えたいとは思わない、と書いた。それは、今でも「劣っていて当たり前」という感覚が抜けず、そしてそういう者は「みじめな者こそ(実は)善い者である」というキリスト教道徳さながらの価値転覆に頼らざるを得ないからである。そしてこれは、つまらないと認めることで誠実さを得るやり方と全く同じだ。(つまり、私を形成してきたのは劣等感なのだ。「劣っていて当たり前」や「自分はつまらない人間だ」というような劣等感が根底になければ、私は自分らしさを維持することができない。)


何より恐ろしいのは、このような構造の中に身を置くと、傷付くことが難しくなるということだ。どういうことか。普通、「自分はつまらない人間だ」と気付いた人はその事実に傷付く。そして、傷付いたために変わりたいと願う。私は違う。「自分はつまらない人間だ」と思うこと(あるいは、言うこと)が即、誠実さに結び付く。変わる努力をすることなく、より上位の価値を獲得する。傷付いたことを認識した瞬間に治療が終わる。


しかし、そのような方法で誠実さを獲得していることに自覚的であるならば、その誠実さは無効になるのではないか、と思うかもしれない。誠実でない方法で手に入れた誠実さにもはや価値など無いのではないかと。


それは正しい。しかし、半分だけだ。なぜなら「そのような方法で獲得した誠実さはもはや無効だ」と認めることで、私は「それを素直に認められるほど誠実な人間だ」とやはり思えるからだ。このように、誠実さを獲得するゲームには終わりがない。そして、このゲームはインチキである。最後には必ず誠実さが勝つからだ。


イエスが敵を愛そうとしたのは、そうせざるを得なかったからではないか。右の頬を打たれて左の頬を差し出すのは、それしか勝ち筋がなかったからだ。ゲームのルールをすり替える。劣っている者こそ優れている。私が優しくなろうとしたのは、優しくなるしかなかったからだ。優しくなり、まだ優しさというものに気付けていない無知蒙昧な他人を「かわいそうに」と哀れみ、心から軽蔑することによってのみ、劣っている私は勝つことができた。


他人を下げることで相対的に自分を浮上させる。私はこの方法を、いつ何時も、あらゆる場面で使うことができた。「そういう方法は不正だ」と自覚したとしても、それを認めることで誠実さを獲得することができる。したがって、傷付くことが限りなく難しい。傷付くことは何らかの方法で回避されるか、あるいは治療される。


しかし、傷を失うことは、変化の可能性を失うことである。また、自分に傷があるからこそ、他人に手を差し伸べることができる。私はこの点をもっとも強調したい。傷がなければ、優しさはあり得ないのだ。


一つに、私は傷付きたい。「はい、あなた誠実ですよー」とか言ってくるヤブ医者みたいな神様を心の中から追い出して、傷を自分のものとして引き受けたい。もう一つ、私はもう他人を軽蔑したくない。そんな風に生きていても仕方がない。


この文章を書いたのは、自分と同じような人が実は多く存在するのではないか、と思ったからだ。優しくありたいと願ったはずが結果的に優しさとは正反対の場所に辿り着いてしまうような、あるいは、劣等感から出発しなければ自分らしさを見出せないような人が。自分らしさというのは、思っていたよりもはるかに病気である。唾を付けておけば治るといった類のものではない。だからこそ、しっかりと向き合わなければならない。という、ね。感じですよね。えーっと、ほんと、頑張りましょうね。しばらく書いていないうちに終わり方を忘れてしまった。すいません、こういう感じで失礼します。さようなら。

We Cry

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