文脈について

以前、記事に「前途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」という言葉を引用したことがあります。これは平家物語からの引用で、平忠度が言ったとされる言葉なのですが、パッと見でもなんとなく意味は分かると思います。あ~これからの道のりは長いよ、この思いを夕べあそこの山にたなびく雲に馳せるよ~とまあこんなところでしょう。引用したお前が言うかね、と思われるかもしれませんが、やっぱり言葉は文脈の中にないと生命力、ねえな~と感じました。


物語の中においてこの言葉は、非常に悲しげで哀愁を漂わせながら、かつ溌剌としてもいて、とても鮮烈な輝きを放っているのですが、言葉だけ引用しても何も伝わってきません。当然です、文脈がありませんからね。


いやしかし、この当然のように思われること、すなわち、言葉における文脈の重要性というものを我々は見つめ直すべきかもしれません。というのも我々は、インターネットで細切れの情報を収集するのに慣れすぎたために文脈の価値を見失っている、あるいは、簡潔なものに魅かれる体質になってしまっているのではないか、と思います。


ホンダの創業者である本田宗一郎さんが以下のようなことを言っています。「真理はわれわれの周辺にはいくらもどこにでも転がっているはずだ」。そしてその上で、その真理を「くみとる力をマスターすること」が重要である、と。


たとえば、村上春樹の『風の歌を聴け』という小説に、このようなセリフがあります。「100キロだって走れる」。このように文脈を無視してセリフだけ引用してしまうと、あれ、レーシング小説?と思われかねません。そしてもちろん、レーシング小説ではありません。では、また別のセリフを引用してみます。「多分ね。でもね、ポンコツ車と同じなんだ。何処かを修理すると別のところが目立ってくる」。ん、レーシング小説・・・?風の歌ってそういう、レース中の風を切る音のこと?、とか、前は100キロ走れたのにね・・・・というような感想を持たれかねず、甚だ遺憾です(とても面白い小説です)。


そうではなく、やはり文脈を鑑みたうえで、主人公はなぜ「100キロだって走れる」と言ったのか、という風に吟味する必要があり、そしてまさしくそこに文学の価値があるに違いありません。真理が見えているようで見えていない、という危うい状況から脱して、「なぜなのか」「だから何なのか」ということを自分で考えなければ意味がないよ、と本田さんは言っているのだと思います。


ネットに慣れすぎて、おいしいところだけかいつまむ癖がついたんじゃないかな、と思います。カップラーメンは早くて美味しいですが、手間を惜しんで作る料理の方が、長い目で見れば、ずっと自分のためになるのではないでしょうか。


Written by おうか

We Cry

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