言葉にすること

波のようにセンチメンタルが押し寄せて来て、しばらくして去る。そういうことが、何かしら昔を思い出させる出来事をトリガーとして度々起こる。

思い返せば、記事を書こうという気が起きるのは、そういったセンチメンタルな期間に多い気がする。だから夜中に書いたラブレターみたいに、時間を置いて自分の記事を読み直すとかなり反省する。また感情に任せて書いちゃったなとか、これ終わりのユーモアだなとか。

そして今も、そのセンチメンタル期間中なのだが、やはりこうして記事を書いている。となると僕は、言葉にすることで自分の気持ちに対処しているように思える。

僕にとって言葉にするという営みは、心の中のざわめきを箱の中に閉じ込めて、外部ストレージに保存する、みたいな効用がある。つまるところ、僕は自分の気持ちを事細かに記述することを通して、センチメンタルからの脱却を試みるだけでなく、その心境を心とは別のところに残そうとしている。

目にこそ見えないが、僕にとって心はたしかに有限なもので、しかもそんなに大きいものじゃない。それゆえに、同時に考えたり感じたりするのには限度がある。だからこそ僕は過去とか感傷とか、そういうものとある程度折り合いをつける必要がある。

そして折り合いをつける手段として、僕らには忘却が備わっている。誰も彼もが、強固な意思によって苦しさを克服できるわけではない。そういう意味では、忘れるというのはとてもありがたい機能ではある。

しかし、忘れること、忘れてしまうことにひどく悲しみを覚えるのもまた紛れもない事実であるのだ。だから僕らは日記を書くし、Instagramで写真を投稿するし、いつまでも楽しかったあの日の話をする。僕がこうして記事を書くのも同じだ。

忘れたくないけれど、忘れなきゃやっていられない、ということばかりだ。別れた恋人との思い出が息苦しさの原因に他ならないのに、わざわざ街に出掛けふたりの面影をなぞってしまうように。思い出はいつも美しいが、とはいえずっと抱えていられるほどタフじゃない。

だからこそ、僕は書くことによって思い出を別の形に変えて収納するのだ。必要なとき、当時の心情までいっしょに思い出せるように。

やはり、僕のような人間にとって書くことはすごく意味のある行為だ。それはもちろん楽しい楽しくないではなく、書かなければやっていられない、という意味ではあるんだけど。

おうか

We Cry

ふと思いついたアイディア、 あの日から解せないこと、 引き出しの中で眠っている絵。 そのままにしてしまうのは なんて悲しいことなんだろう。 だったらそれをシェアして広めようよ、 そこから新しいものが生まれたら 素敵だよね。 という思いから、このウェブサイトを プラットフォームとして、 ジャンルも形も問わず 何でも自由にシェアしていきます。

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