ほろびしものは
中学のクラスで同窓会があった。男友達と遊ぶことはあっても、クラス全体でというのは卒業以来はじめてだったので、久しぶりの再会という感じだった。
同窓会には担任の先生も来て、それはもう皆に慕われる先生だったから、すごく盛り上がった。先生やなかなか会えなかった友人と会うこと、話すことができて、それはそれは良い時間だった。
ただ、終わったあとのこの胸に残る感じは何だろう、と思った。あの頃の皆と会えて楽しかったし、また集まる約束もした。何も悲しくないし、寂しくないはずだ。しかしどういうわけか、心の中にズシリと重いものが生じたように思えてならなかった。
その胸のつかえは、もう会えないかもという心配か、思うように話せなかったという自己嫌悪かなと思っていた。しかしそうではなく、僕の心に生まれたのは、もっと深く根差した寂しさのように感じられた。そうなのだ。
僕は先ほど"あの頃の皆と会えて楽しかった"と言ったが、これがそもそも間違っていた。僕はあの頃の皆と会えてなんていなかった。なぜならクラス替えのあの日に、あるいは中学卒業のあの日、今では記憶に残ってすらないようなあの日に、あの頃の僕らは死んでいた。
連綿と続き、一直線で表すことができるのが人生と思っていたが、そうでもないかもしれない。あるいは僕らの人生は生き続けることではなく、むしろ死に続けること、失い続けることなのかもしれない。
僕はおそらく決定的な、埋めがたい差を感じてしまった。あの頃の皆とあの頃の自分が、あの頃の雰囲気で。そういう関係性で皆と会えると、どこか信じていた。
しかし実際は、何もかもが違っていた。あの頃のみんな、自分も、先生、雰囲気、会話、精神、表情、その全てがすでに死んでいた。つまりどういうことか。どれだけ同じ状況を作り出したとしても、あの頃には戻れないということだ。結局、人が集まるだけであの頃を取り戻すことなんてできない。死者は戻ってこない。墓を掘ったところで、出てくるのは骸でしかない。
二年半ほどいっしょにいた恋人が、別れてたった数ヵ月で他人のように感じられた。別れたあとも連絡は取り合っていたのに。あれだけいっしょにいて、どうして、何が違ってしまったんだと。これも同様、違う違わないではなく、別れを告げられたあの日に、二人は一度死んだのだ。
だから、月並みなことだけど、今この瞬間は二度と返ってこない。どんな瞬間も、返ってこない。「また横浜行こうね」じゃない。その横浜に二度目はない。だから、やっぱり瞬間瞬間を愛さなきゃいけないみたいだ。
ちなみに、もちろん同窓会に価値はあると思っている。めちゃくちゃある。でも、あの頃を求めてはいけないということだ。あの頃は、悲しいけど、本当に悲しいことだけど、返ってこない。僕らにできることはせいぜい、去り際の友人の笑顔に当時の面影を見ることだ。でもそれでいいのかもしれない。(比喩として)死んでしまった彼や彼女のよすがはまだあるのだ。そうやって昔を想う。それもまた幸せなことだろう。
かたはらに秋ぐさの花かたるらく
ほろびしものはなつかしきかな
滅んでしまったものの、なんと懐かしいことか
おうか
0コメント