退屈の行方
「暇すぎる」と思っている皆さん こんにちは。同じことを思っている者です。
本棚にたまたま「暇と退屈の倫理学」という本があったので、「うわー」と思って読みました。面白かった箇所をいくつか紹介します。
その前に、少し実体験を。
先日、たまたま広告業に携わる方と話す機会があって、曰く「広告ってのはねえ、洗脳に近いんだよねえ」とのこと。
私は広告にまったく関心がなかったので「広告は既存のトレンドを見つけ、それを助長するために打たれるもの」と認識していたが、どうも違うらしい。
曰く「広告は既存のトレンドを掴むんじゃなくてねえ、もはやゼロからトレンドを作るものなんだよねえ」らしい。その域らしい。広告ベースで世界は回っているみたいな言い方で、それはちとあなた言い過ぎじゃないの?と思っていた、が
それとほとんど同じことが「暇と退屈の倫理学」でも述べられていた。なんだ、割と的を射たことを言っていたのか。魔女みたいに語尾を伸ばすから一切信用していなかった。
我々は退屈して、それを紛らわせようとする。たとえば、カフェ巡りを趣味にしている人(私もそう)は多いだろう。では、それは何のために行われるのだろうか?カフェのご飯が好きだから?
バカ言え。カフェの飯は高すぎる。バカみたいに金を使っている。この間もコーヒーとケーキのセットが1200円くらいした。どういうことだ。何がいくらで、何がいくらなんだ。
たしかにカフェのご飯は美味しい。でも、暇な休日に「あなたの家にカフェのご飯をお届けします」というサービスがあったら、あなたは利用するだろうか?
「だから、あなたはカフェに行く必要はありません!」と言われたらどうだろう?私はおそらく、これ以上ない流暢な日本語で「ふざけないでください」と言う
では、私たちはご飯でもお洒落な空間でもなく「カフェに行ったという事実」のためにカフェを訪れているとは言えないだろうか?こう言い換えてもいい。「このカフェ行ったことある?」「休日はカフェで過ごしてさ」と友人に話すためにカフェを訪れてはいないか?
カフェが提供するモノを消費するのではなく、カフェが提供する観念を消費しているのだ。だって、お気に入りのカフェが見つかったらそこに通い詰めればいいはずだ。でも、私たちはあくまで「巡り」にこだわる。観念を消費するから、その消費には果てがない。
ブームというものを同じ論理で説明することができる。たとえば、タピオカブーム。タピオカミルクティを買いにわざわざ遠くまで出かけるのは何故だろうか?タピオカミルクティが美味しいから?
バ〜カを言え。全く美味しくないだろ。もう腹割って話しませんか。「全く」ってことはないにせよ、決して美味しくはない。私も飲みましたが、終盤は「罰?」と思いながら飲んでました。 罰だろ、西洋の軽犯罪の
モノを消費するのではなく、モノが持つ観念や記号を消費するというのが消費社会の論理なのだそう。観念や記号の例としては、ブームやブランド。ヴィトンの財布とか「オシャレ〜」って思いますか?というより、「ヴィトン」だから買いますよね。
広告の話に戻りますが、広告業の方は当然そういう消費社会の論理を見抜いて「あたかも価値あるもの」のように見せて提供する。それで人々は退屈をやり過ごす。でもその消費は観念(自慢するためにカフェに行く)の消費だから、また別の消費を求める。消費消費消費消費・・・・・・・消費^(n-1)
まあだからと言って、私はカフェに行くことをやめないだろうし、お洒落な装丁の本は内容を確認せずに買い続けると思う。だって退屈だし(今はカフェとか行ってません!俺は自粛の奴隷です)。本書ではこの輪廻から解脱する方法も紹介されていますが、それはさすがに各自で読んでください
なので「暇と退屈の倫理学」と、あとは「ファイトクラブ」もそういう映画で超面白いので観てください。アマゾンプライムで観れます。では皆さん、お疲れ様でした。
おうか(自粛の)
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2020.06.01 04:46