こころがない?
皆さんは自分のことを「こころがない人間だ」と思ったことがありますか?僕はあります。
ここでの「こころがない」は狭義で、「感動の涙を流せない」くらいです。さて、自慢ではないですが、僕は19年間生きてきて、感動して泣いたことがただの一度もありません。「自慢ではないですが」と冠につけて、本当に自慢じゃないことって、長い地球の歴史で見ても、なんと、初めてのことなんだそうです
あまりにも泣けないので、この間「君の膵臓を食べたい」を観に行った時、入場前には涙腺エクササイズをし、涙ボルテージを高めるため様々な工夫を凝らしました。”涙腺エクササイズや涙ボルテージとは何なのか”につきましては、当方からのコメントは控えさせていただきます
そして結局、上映中二時間弱のあいだ涙が流れることはありませんでした。劇場では多くの涙が流れたってのに
しかし、誰が「よーし今日は泣くぞ~」と意気込んで劇場に足を運ぶのでしょうか、そんな人はいません。「泣くぞ~」の時点でお門違い、映画館に検問がなくてよかった、もしあったら、泣くぞ~という意思が表情に見えたその刹那、ムキムキの外国人の口からゲラウトヒア、そういうことになります
泣けないにも程があったので、理由を考えてみたことがあります。考え続けて数か月後、答えらしきものがようやく見つかりました。「子供のころ小説を読まなかったから」、かも。
なぜこのような答えに至ったかというと、最近「祖国とは国語」という本を読んだんですね。そこに「物語を通して高次の情緒を育まないといけない」といったこと(大意はズレてないと思います)が書いてありました。
高次な情緒というのは、動物にも共通する喜怒哀楽のような原初的な情緒ではなくて、そこからもう一次元高いもの。他人の不幸への感受性やもののあはれが、高次な情緒にあたります。そしてそれらは物語によって養われるところが大きいのだと、作者の方はおっしゃっています。
文学作品には様々なテーマのものがありますから、たしかに物語で疑似体験することで得られる情緒はありそうです。たとえば、戦争文学を読むことで戦争の凄惨さや人間の醜い姿を心に焼き付けることができますよね。
僕は国語が好きだし、言葉が好きだし文章も好きだけど、小説をあまり読まずに生きてきまして、ああ、もしかしたらそこがまずかったのかな、と。
これを読んでいる方の中にも、友だちに「心無いもんね」と言われて悩んでいる方がいるかもしれない、と思って書いてみました。だから僕はこれから、沢山の文学作品に触れることで、「こころ」をぴかぴかに磨いていこう、と、そんな風に思っています、今日はどうも、ありがとうございました
Written by おうか
0コメント