表裏
表と裏、対局のものではあるが、表裏一体という言葉のごとく、ほぼ同じものであることだって少なくない。人間でも、ものでもそうなのかもしれない。何が表と裏をそう定義するのだろう。1/22の昼下がり、僕はそんなことを考えていた。
先日、こんなツイートを見かけた。
これは面食らった。たしかに、ジャムを塗る前はどちらも表であり、どちらも裏であったのに、ジャムを塗った瞬間に、塗った面が表になる。しかも、性質上、両面に塗ることは難しい。この場合、裏と表を定義付けているのはジャムである。
授業で配られるプリントも同様で、元はただの白い紙に何かをプリントをするから表が概念的に生産される。じゃあその裏に、それ以上になにかを書き込めば表にすることができるのだろうか。一度定義づけられると、それを覆すのは難しそうだ。
人間はどうだろうか。俗世的に、多くの普通の友人に見せている面を人は表と呼び、一部の親しい人たちに見せている面を裏と呼ぶ傾向にある。
例えば、普段は物静かな子が親しい子たちといるとすごく騒いだりすると、「あいつは裏があるらしい」なんて言われるわけだ。
その子のみんなに見えている表面は「静か」であり、それがその子の「表の顔」になるのだけれど、果たしてそれはそうだろうか。
親しい人にしか見せられないのが「表の顔」である可能性もあり、本人の本当のパーソナリティはそっちなのかもしれない。
逆もあり得る。普段はおちゃらけたうるさい子が、仲のいい人たちと飲むときはすごく静かで哲学的であったり、人間に対して懐疑的であったりすると、「あいつ、根は暗いぞ」「外ヅラを作ってる」だなんて言われたりする。しかし、実はものすごく懐疑的であるのが本人の自己定義における表だとしたら?他人の判断は、自己満足に過ぎない。大衆定義的な表と自己定義における表が異なることは多々あるのだ。
人は、区別をして理解をしやすくするために、なにかを表と定義し、その逆を裏と定義することが多くある。しかしそれは常に第三者的なものであり、特に気にかける必要もないのだ。自分を自分で定義できることこそ大切であると思う。
何より、裏も表も、自分を、貴方を作る大切な一面であることに、疑いの余地はないのだから。
Written by Kohei Suga
0コメント