役に立たない

大学不要論を唱える輩に顕著ですが、「古文漢文なんか社会出てから一回も役に立たなかったけどな(笑)」と得々と語る御仁がいらっしゃいますね。インフルエンサーよろしく奇をてらった発言をするのは結構なことですよ、だって言論、自由だし。しかしこういった発言の問題点は、人によっては、この発言を自堕落な生活を肯定する格好の材料と理解しかねない、という点でしょう。まあこれ、以前の僕のことなのですが!


数年前の僕がインフルエンサー狂いだった話は置いといて、では、はたして古文漢文、あるいは人文学という文系学問は、社会で役に立たない代物なのでしょうか。僕は19年延々文系に生き続けた文系の権化、理系科目をことごとく放棄した挙句、センター数ⅡBは25点という文系超人なので、ロジカル・シンキングを駆使して、この意見に反論していきたいと思います


まず人文学では広いので、先に示した「古文漢文」から、とりわけ「古文」を学ぶ利点について考えてみようと思います。おそらく、古文漢文を不要と切り捨てる人の多くは「昔使われてた言語を読めるようにしたところで何?」という観念もお持ちかと思いますので、そこから始めますと、


「古文を学ぶ意義」を問われたとき、僕らがするであろう主張

1.古語の持つ独特の音韻、やわらかさ等から優れた言語感覚を養える

2.人間の普遍性を描いた作品が多く、現代を生きる僕らにも通じるところがある

3.そもそも論、自文化くらい知っておくべき


もちろん、上記に挙げた三つ以外にも沢山あると思われますが、このくらいにしておきます。しかし仮に、上記の三つで論理だった反論を立て、発言に窮し論破できたとして、相手は素直にヨッシャ~とか言って古典文学を買いに行くか、というと、まあ行かないでしょうね。なぜかと言えば、古文は不要だと一蹴する人には合理主義的な一面があると思うからです。当たり前の話ですが、人文学系の学問は「役に立つかどうか」の物差しで語られるものにあらず、カルチャーとしての学問ですから、合理主義と併存することは困難です。つまり、合理的思考に基づいて「役に立たない」とした人は同時に「(意識的に)役に立たせようとしない」人でもあり、そりゃあ意味ないですよね


根拠に裏打ちされていない合理主義者は、独りよがりで、感情や学問における複雑性を体感したことがない人、という(過去の経験に基づいた)印象があって、そんな彼らに対して僕は「そんなに物事は単純じゃないと思うけどなあ」と辟易してしまいます。


インフルエンサーはインフルエンスしてるわけだし、やっぱり発言には責任を持つべきで、「役に立たない」という自分の感性に基づいた意見を、まるで真理かのように宣言するのはちょっと待ってほしいな、と思います。出来れば、「あくまで主観だ」という一言を忘れずに入れ、自分の物差しで全体を語ることは避けていただきたい。

「役に立たない」とばっさり切り捨てるのではなく「なぜ学問として成立しているか」を考え、「その学問の意義(または役に立つところ)」を見出だす姿勢を身に付ける。すると世界は無限に広がって、知の探求たのしー!みたいなことになるのではないか、そのように思います


Written by おうか


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