あなたのやさしさを何に例えよう

とある飲食店でバイトをしている。ホール担当なので案内とか料理提供とかオーダーとかそういったことをしているのだが、要領が悪すぎる上に、焦ると頭がこんがらがって脳から信号が発せられなくなってしまい、その結果私は”無”になってしまう。”無”になるというのはどういうことか?端的に言えば、きわめて基本的な動作がままならなくなる。


たとえば店長からパフェ三つの提供を頼まれたとき、「このパフェ不安定だから気を付けて運んでね。」と言われた。私の頭の中では「気を付けて運んでね」という言葉が延々と反芻し、それに伴って「落としてはいけない」という強迫観念で頭がいっぱいになりおそらく前頭葉の一部が爆散した。そしてとりあえず元気よく「はい!!!!!!!!」と返事をしたわずか1秒後に私はトレーを右に傾け気付けば二つのパフェが崩壊していた。確認してみたところ、あいにくトレーには「かつてマンゴーパフェだったもの」しか残っておらず、完全に二つのパフェは私の手によって葬り去られた。パフェを破壊したことで私の前頭葉はほとんどはじけ飛び、終いには海馬も爆散した。


脳の指令をつかさどる海馬が爆散したことで私は見事なまでに”虚無”に落ち、店長がなにやらぶつぶつ言いながらパフェを作り直している姿をただ黙って見つめていることしかできなかった。虚無からはしばらくの間抜け出せず、私は失敗を繰り返した。しかしやまない雨はないし明けない夜はないし終わらないバイトもないらしいので、ただ時間の経過を待つように惰性で仕事をしていた。


しばらくして私が料理を提供しに行ったとき、提供先の客が覆面レスラーの正体みたいな強面の男の人だった。万が一にも料理の提供をミスしようものならコブラツイスト、みぞおちへのローリングソバット、そして垂直落下式ブレンバスターを受け、今度こそ私は死んでしまうだろう。手を震わせながら、半ば死を覚悟した状態で料理を提供したところ、さっきまでの強面はいずこへ、森羅万象を包括する女神のような微笑みを私に向けながら「ありがとうございます」と言った。私はちょっと泣きそうになった。その人はおそらくどんな時でも感謝の気持ちを丁寧に伝える方なのだろう。私だけに特別、なんてことはないはずだ。しかし、”虚無”に陥り自己嫌悪に苛まれていた私にとってその優しさの、どれだけ温かかったことか。覆面プロレスラーという印象を持ったことで基準がやや「怖い」寄りになっていたことも影響していたかもしれないが、優しさがじわりと沁みてきて心が軽くなった気がした。


それだけで私はバイトを始めてよかったと思った。ささやかな笑顔に救われる思いをする人が、この世の中には沢山いるかもしれないと思った。私は彼から受けた恩を返すことはできなかったが、彼のやさしさの伝承者となって、別の人に対してやさしさの輪を広げていくことはできる。なんだか中学生の作文みたいな言い回しだが、最も適切なフレーズなのだから仕方あるまい。とにかく、苦痛でしかなかったバイトに対する姿勢が、彼のおかげで少しばかり変わった。店員として客に笑顔で接客することはくだらないことではない。私のような一店員の笑顔もまた、それに救われる人がいるかもしれないという点で馬鹿にはならないのである。


Written by おうか

We Cry

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