花さそふ

高校時代、百人一首大会が校内行事(全員参加)だった。とはいえ、校内の百人一首大会のために万全な準備(百人一首の本を買い、決め字を暗記するetc)をするものなどほとんど皆無に等しく、そういう人はそれこそ、元々百人一首に興味があったか、あるいは「ちはやふる」を読みすぎて完全に憧れてしまっているかのどちらかだった。そしてかくいう私は圧倒的後者、すなわち「ちはやふる」読みすぎサイドの人間だった。


「ちはやふる」は百人一首ひいては和歌の入口になってくれた。こういうアニメ・漫画の優れた点として、「だらりと見れる」が挙げられる。こちら側から働きかける必要がほとんどない。「ちはやふる」も基本的にだらりと見ていただけで、最後には和歌への興味を私に残してくれた。しかしその一方で、「ちはやふる」がくれた「和歌」は、こちら側からの働きかけが必要不可欠なものだと考えている。


『花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり』


この和歌は百人一首の中でもとりわけ好きな一首だ。「花さそふ」という表現の美しさや「雪ならで」という響きの面白さ、「ふりゆく」が「古り」と「降り」の掛詞になっている点など、魅力が沢山あると思う。しかしながら、私は今までこの歌ときわめて表面的な付き合いをしてきたと言わざるを得ない。なぜならこの歌が「和歌」である以上、真の魅力は当然その「内容」にあるのにもかかわらず、その内容に実感が伴っていなかったからだ。


和歌の世界を味わいたいとき我々がすべきなのは、作品世界に身を浸すための準備だろう。たとえば、先ほどの和歌を味わう場所としてスターバックス・コーヒーは適切かどうかを考えてみてほしい。どう考えても、不適切ではないか?まず店名が横文字だし、ジャズが流れてるし、絶対ドリンクを購入しなければならないので、ラテ片手に和歌に触れることになる。すると味わうのは「花さそふ」の和歌ではなく、「ラテ」になってしまう。ラテ片手に作品に触れられた入道前太政大臣(作者)がどんな気持ちになるか考えてもみてほしい。「らて飲みこそ、信ぜられね」みたいなことを言うと思う


和歌が詠まれた場所と同様の環境に身を置いてこそ、和歌は輝くと思う。今回ならば、散る花を前にしてはじめて和歌に実感が宿るのだ。そんなことを、清水寺で宙を舞う桜を見ていたときに感じた。現代において、世の無常を感じる機会などそうはない。桜の散る姿を見て、私たちも本来は風向き一つで散ってしまう儚い存在であるということを実感したとき、この和歌は輝きを見せた。言い換えれば、和歌の本当の価値は古の風に身をさらされるまで気づかないということだ。そんなことを思って、すぐにこのプラットフォームで共有したいという衝動にかられた。そして、他でもなくそんな衝動こそが、およそ一千年前の歌人を和歌へと駆り立てた正体でもあるのだろう。


Written by おうか

We Cry

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