フィクションだってノンフィクション
たとえ千年前だとしても、たとえ物語というフィクションだとしても
それは必ず人間によって書かれたもの。
ということは、きっとそこにはモデルがいただろう。(と私は思います)
例えば、六条御息所の物の怪によって生死をさまよった葵上、命を落とした夕顔。
ただの空想上のキャラクターだと片づけてしまうなんてなんか味気ないことじゃない?
妊娠病によって精神を病み、体を蝕まれた女性はいたと思う。
娘を残して若くして急死した女性も然り。
紫式部は宮中での生活の中で、そんな女性たちの死や病(ノンフィクション)に
物の怪(ノンフィクション)を色づけたんだろうと思う。
様々な病や人の死はあっただろうが、医学の発達していなかった当時は
それらは説明できない未知なものであっただろう。
特に精神病はその最たるものである。
未知なものを説明するときに、”人ではない何か”にその罪を着せれば
人間はとりあえず安心できる。
だから嫉妬に塗れた宮中で、乱心者を説明するときに”物の怪”は
使いやすい口実だっただろう。
六条御息所にもきっと、紫式部が見てきた何人もの名も知れぬ女性たちの
像が重なった
医学や科学が発達した今、残された文章から彼女たちの病名を明らかにしていくことは
可能なんじゃないだろうか。
そして私はまだ千年前の彼女たちを想像するとき、
のっぺり顔にゴマのような目という単一的な顔しか想像できないけれど
彼女たちも当たり前のことだが、私たちと同じ人間であってリアルなのだ。
なんだか現代と古典で習った千年前が繋がったみたいで
私はとってもロマンを感じる。
written by nami
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