和について
和という言葉を、皆さんも聞いたことがあるだろう。私も正直うんざりするくらい聞いてきた。「和を以て貴しと為す」とか、和の心とか、おおい、そういえば元号、令和じゃないか。なんなんだ。「和」は何がそんなに面白くて、我々に付きまとってくるのか。
万葉集の梅花歌から令和という言葉が選ばれたために、今や万葉集の入門書が、飛ぶ鳥を落とす勢いで飛ぶ鳥を落としている。そして何を隠そう、私も見事に落とされた一羽である。
積ん読になってしまえば一生読まないことは分かっていたので、パラパラとめくっていると、「言挙げ」という聞き覚えのないワードが目に飛び込んできた。どうやら、その意味するところは、「自分の意思をはっきり言うこと」らしい。そして、言挙げの際、守らなければならないことが二点あるそうだ。
ひとつ目は、多くは語らないこと。
ふたつ目は、個人としての自己主張は慎むこと。
かの有名なヤマトタケルノミコトは、これを守らなかったために亡くなってしまった。悲しいことだ。そして彼は死後、白鳥になって空を飛び去ったとされている。白鳥になれるなら、よくない?と思わないでもない
話は戻って、言挙げという文化は日本人の精神文化を現在のように至らしめる大きな要因のように思われる。だって、日本人は多くを語らず自己主張は控える、いわゆる空気を読む人間だ。言挙げで守らなければならないことが、今でも暗黙の了解のように残っている。
でも、なぜ多くは語らないのだろう。なぜ自己主張は控えるのだろう。はい。そこで満を持して、和が登場するわけだ。それらはぜーんぶ、和のためだ。調和がいちばんたいせつ。ならば、自分の主張を無理に通すよりお互いに妥協点を見つけて、平和的解決を望む。そう考えると、あれ、和って、案外悪くないんじゃないか。和、見直したよ。和、今夜一杯どう?そっか、用事あるなら仕方ないね
ただ古代と少し違うのは、和を意識して行動するとき、へりくだるのではなく折り合いをつけるべきだということ。へりくだってしまっては、ダメだ。ある程度自分の意見を通す必要はある。場合によっては、退いてはならないときもあるだろう。
しかしながら、根底に和の精神があるなら、平和的解決を望む心があるなら、物事は良い方向に進むのではないか。そういう思いがあったからこそ、千年以上経った今でも受け継がれている精神なのではないか。そういったことを、万葉集の入門書を読んで考えた。
Written by おうか
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