意味ということ


「人生は無意味だからこそ、自ら意味と目的を創造することができるのだ」


『シャイニング』や『時計仕掛けのオレンジ』でおなじみ、スタンリー・キューブリックの言葉だ。この言葉のとおり、人生はまったくもって無意味であると僕も思う。この件に関しては「実存は本質に先立ちます、以上、解散」それで終了だ。無意味に人間が誕生し、意味あることを求めさまよう。そうして終わっていく人生に、やはり意味はないように思える。ちなみに、これは生の意味の否定であって生そのものの否定ではない。(ついでに言うならば、生の意味の否定は決して消極的なものではなく、中性的なものだ)


誰しもが生まれてきた理由を考えるが、そんなものあろうはずがない、と思う。カエルに救いの歌があるだろうか?カエルにはカエルの神が?人間はご都合主義が過ぎる。人間には救いがあるみたい!良かった!では、無残に轢き殺されたカエルには?


僕が生まれてきたという事実において、意味はない。意味は生まれながらにして共にあるものではなく(サルトルが言ったように)主体的に見出すものだ、と思う。だから、キューブリックの言葉は僕にとって正しい。全体を語るのは愚かなことだ。僕には僕のことしか語れない。売れたロックバンドが普遍的な正解を歌い始めたとき、彼らはたったワンフレーズでくだらない存在に成り下がる。そのとき舞台に立っているのはロックバンドではなく、免罪符を売る神父たちである。三島由紀夫が言ったように「揺らぎを示すのが文学の役目」であり、真理を示すのは神である。


では、どうして生に意味を求めるのだろうか。おそらくは、苦しいからだろう。なぜ苦しいのか。おそらくは、自分が何物でもなく必要性のない存在であることが耐えられないからだ。なぜ耐えられないのか。おそらくは、自己評価を他者に依存してきたからだ。


社会にあるということは、相対評価の中にあるということ。相対評価は他人と自分との差異で決まる。なぜインスタグラムやツイッターなどといった私性をさらす場が、ここまでメジャーなコンテンツたりうるか。それは、多くの人がそこにしか自分を測る物差しを見出せないからだ。他者が私(わたくし)を定義し、私が他者に「定義してくれ」と叫ぶ。定義さえあれば、眼前の道が拓かれる心地がする。そして、その方がずっと楽だ。


でも、自己の意味を他者に見出してもらうことは、正しいのだろうか。いつまで順位表が正しいのだろう。偏差値が、ファッションが、趣味が、日常が、行動が、表情が。他人と自分を比較して、あるいは、普通と異常を比較して生まれる冷めた笑いに何の価値があるのか。思うに、私を定義するのは私以外に務まらない。意味あることを求めるのではなく、最期の瞬間、自己に意味を見出せるような生き方を。それだけ胸に生きていけたらと思う。


おうか

We Cry

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