芸術はムズカシイ
僕は「通じてる感」を出すことに昔から長けていて、なにか、たとえば作家のことが話題に上がったりすると、「ああ、それね」といった顔を脊髄反射で作ることができます。「ああ、それね」によって僕は周囲に『アイツはめちゃくちゃ分かってる』と思わせることができ、友人たちが交わす「ジョンレノンじゃん」「おいおい、~(僕の名前)の前で何言ってんだよ。ジョン・ウィンストン・レノンだろ」みたいな会話を「(ジョンレノンって、 そもそも誰?)」と思いながら聞いていました
というのも高校時代の僕は、なんとなく芸術に通じてることがカッコイイ気がしていたんですよね。難解で理解できないものってカッコよかった。でも実際に鑑賞してみると何一つ良さが分からない、何も感じ取れない。それで「ああ、自分は芸術とは縁がない人間なんだな」と思うようになりました。
そうして僕はほとんど芸術に触れないままに日々を(ジェイソンステイサムの映画を芸術と呼んでいいなら芸術漬けの日々でしたが)過ごしていました。そんなあるとき、友人から「おもしろい劇があるよ」という旨の連絡をもらいました。僕はほとんど唯一、劇には興味関心があったし、内容も魅力的だったので、すぐさま足を運びました。するとこれが本当におもしろくて、なんて勿体無いことをしていたんだ、と思えるくらい心に響いて、それをきっかけに芸術関連にアンテナを張るようにしました。
そして箱根を旅行した際、彫刻の森美術館という美術館があり、これは良い機会だと感じて行ってみました。そこではピカソ展なるものが開催されており、これがとても良かったのです。ピカソの作品にピカソの言葉が添えられていて、もちろんそのすべてに共感したり、学びがあったわけではないのですが、胸を打つものがいくつかありました。
ピカソは、幼い子供が描くような絵を意図して描けるようになるまで一生涯かかった、と言っています。我々は年を追うごとに感性が均質なものになっていく気がします、というのも、社会の中で生きるとは、世間体や相対評価と共にあることと同意だからです。だから我々は感性が均質化され、抽象的・一般的なものしか描けなくなるのではないかと考えます。
ひるがえって幼い子供は、見たままに描きます。彼らに「抽象」も「一般」も「世間体」も「社会」もなく、周囲の評価など気になろうはずもないからです。そしてその、「見たまま」を描くことにピカソは一生を捧げたのだと理解しました。ちなみに僕は幼稚園の近くに住んでいるので、飾られた幼稚園児たちの絵を見る機会がわりとあるのですが、ピカソの絵は彼らのそれに酷似していました。
ピカソの言葉で印象的だったのが(大意ですが)「探すのではなく見つけるのだ」というものです。この言葉に触れたとき、いつか現代文の参考書で読んだ(これも大意です)「芸術家の仕事とはリンゴの鮮やかな赤に今一度気付かせることだ」という言葉が重なり、実は世界はすでに素敵なものであふれていて、うつろな目がそれらを捉えなくなってしまっただけなのでは、と考えました。探すのではなく、見つける。ピカソが無邪気に描く幼い子供を目指したのも頷けるような気がします。世界には素敵なものが溢れているのかもと思うと、ちょっとワクワクしちゃうな
通じて強く感じたのは、一般的なものや常識的なものにロジック(あるいは、必要性)はあるけれど、それが本質的かどうかというのは全くの別問題だということです。ここでの常識が少し離れたところでは非常識になるように、我々は生きてきた文脈に依存し、そう簡単には外せない色眼鏡を常にかけているということ。そしてそれは心に何ももたらさないどころか、阻害することさえある。今回でいうと、ピカソという超有名な画家ならば、複雑で難解な絵を描くはず、いや、描いて然るべきと思っていた。複雑なものこそが崇高なものであると信じていたからです。実際にはその逆、シンプルな絵を描くことに生涯を捧げていたではないか!
そう考えると、複雑なものを作るよりシンプルなものを作る方がずっと難しいのかもしれないなあ、と思えてきますね。そういえば、ジョンレノンも「Let it be」と歌っていたな。やっぱり名を遺すミュージシャンはすごいよな。うんうん。 ジョン・ウィンストン・レノン な
おうか
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