臆病について
僕はひどく臆病な性格をしています。そしてそのことというのは、今までの僕の人生を決定づけてきた大きな要因のひとつと言ってまず間違いありません。
臆病ゆえに僕は世間体を気にしながら生きてきまして、他人からの評価にものすごく敏感でした。たとえば、クラスの女子がいつもよりちょっとそっけなかったとか、そんなことで高校からの帰宅中45分間、ひとり反省会が開催されます。
彼女にそっけなくさせ得た自分の振る舞いについて、延々と45分間ずーっと考えていました、非常に勿体無いです、時間。そしてすごく気持ちが悪い
でも、臆病で良かったなということもあるんですよ。最たる例が、気を遣わざるを得ないということです。これはどういうことかと言うと、他人の評価に敏感がゆえに気を配るようになるんですよね、良く思われたくて。
心からのやさしさではないけど、そんな風に世間体のために気を配ってると、やっぱりその分多くの笑顔を見れるし、あったかいなあ、やさしさって大事だなあ、と思うようになりました。あとから気持ちが付いてきたので、そういう意味では良かったかも!という感じです。
しかし、そんな性質があるので概して臆病者というのは「自分は良い人間だ」と思いがちです、多分。僕もそうでした。でも先に述べたように、臆病な人の親切というのは心からのものというより世間体に献ずる意味が大きいのです。
だから、僕らにとって最悪なケースは、臆病者という事実に無自覚のまま、そこから目を背け続け、「自分は良い人である」という観念を疑わなくなってしまうこと、またそれによってかえって独善的に振る舞うようになり自己反省を忘れてしまうこと、だと思います。
高校時代の僕がそうでした。例を挙げますと、僕はなにか嫌なことを言われたとき、言い返さずに飲み込んでしまう人間でした。それは、『相手のためを思って、相手が傷つくことを防ぐために、僕が飲み込んでやるのだ』と思っていたからです。
しかしこれは、言い返してしまうことで、自分がそれ以上に傷つくことを恐れていただけです。つまるところ、「他人のため」という綺麗な言葉に隠して、その実、すべては「自分のため(自分を守るため)」の行為でした。本当に相手のことを思っていたなら、異を唱え、議論を展開すべきだったのです。それに気付くまで、18年ほどかかりました。
今考えれば、「他人のため」なんて、どこか他人を見下しているのです。自分を過大評価しているのです。そしてようやく今は、それらを理解しているような気がします。ただ、もしもあのままずっと臆病さに無自覚のまま、日々を過ごしていたら?そう考えるだけでちょっぴり、ゾッとしてしまいます。
Written by おうか
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