「やっぱり生きていたい」に

ある朝のこと。私はふと思い立ち、ホームのスレスレの位置で電車を待つことにした。

到着間近だというアナウンスに加え、騒がしいあの音が聞こえてくる。私は列車が視界に入る寸前まで、その場所に踏み留まっていた。本当に、本当に恐かった。


しかしこの世の中には、私が「踏み留まる」ことすら恐いと感じたその瞬間、そこへ「飛び込む」人々がいる。飛び込むことよりも生きていることの方がずっと恐ろしいと感じる人々がいる。泣きそうになるがこれは紛れもない事実なのだ。




なんだかうまくいかないときや失敗してしまったとき、「あー、死にたい。」と口にしたことがある人、多いのではないだろうか。私自身もこの18年間という短い人生の中で、幾度もあった。

あなたも私も「死にたい」と言うだけ、思うだけに留まることができたが、そこで留まることのできなかった人々がこの世界には沢山、沢山いる。


厚生労働省が公表している警視庁の自殺統計によると、2018年の自殺者数は20,598人。こんなにも多くの人々が死ぬことよりも生きることに恐怖を、苦痛を、感じていたのだ。自殺という選択をした人それぞれに「なぜあなたはそうしたのか。」と尋ねることができたなら、その答えを解析し、そこから解決策を導き出せるのかもしれない。しかしそれは不可能であり、悔しいことに私たちは本当の理由を「本人の口から」直接聞くことができない。


この問題と向き合い、解決に向かうために私たちにできることがあるとするならば、それは、「死にたい」と感じた瞬間以降に、「やっぱり生きていたい」、「生きてみてもいいかも」と思い直せるようなきっかけをつくることなのではないだろうか。




辞書を引いてみると「自殺」とは

自らの意志で自らの生命を絶つ行為

だと定義されている。

英語、仏語の"suicide"も、ラテン語のsui(自ら)とcaed(殺す)を語源とする合成語であるそうだ。


しかし私はこの「自らの意志で」という部分に、なんだか納得がいかない。なぜなら自殺とは、周りにいる人々や環境などがその本人に「死にたい」と思わせていると考えるからだ。または死ぬことを「選ばされている」と言い換えることもできる。

"I want to kill myself because of nothing!!" なんてならないだろう。なんの前ぶれもきっかけもなく自発的に死を選択するなんてありうることではない。




オランダの哲学者であるスピノザは、こう言っている。

何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものではなく、
そうするのは外部の原因に強制されてするのである。


自殺を選択した人に対して、その精神力や意志の弱さを指摘する人々がいる。しかしスピノザはそうではなく、その人の本質と相いれない様々な事柄が、本来持っていたはずの「生きる力」を征服してしまうことによって人は自殺してしまうのだと説いている。


そうだとするならば、同様に「やっぱり生きていたい」と思ってもらえるきっかけを作り出すこともできるのではないかと私は強く信じている。




生きてたいと思うきっかけとして一番大きいのは「幸せ」を感じることだと思う。何を「幸せ」と捉えるかは人それぞれであるが、「幸せになるための方法を知らなければならない」というその事実自体は共通している。それを知るためには、読書をはじめとする様々な経験が必要だと私は考える。


先ほど登場したスピノザは

人生において何よりも有益なのは
知性ないし理性をできるだけ完成することであり、そしてこの点にのみ、
人間の最高の幸福すなわち至福は存する。

と説く。


また脳科学者の茂木健一郎は

本をたくさん読むと、それだけ広い世界が見える。読んだ本を積み上げた、それだけの高さから世界が見える。だから、自分の足場を高くすると思って、本はたくさん読んだほうがいい。ジャンルが偏ると足場も怪しくなるから、できるだけ多くの分野の本を、まんべんなく読むのが良いのである。

とも言っている。


知識を増やし見識を高めることはすなわち、「幸せ」になる手段を得るということなのだ。


またここで、辛くても生きていこうと思わせてくれる和歌を紹介したい。

ながらえば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき

長く生きていればまた、今のつらいこともなつかしく思い出せるのではないだろうか。
つらく苦しいと思っていた昔の日々も、今は恋しく思い出されるのだから。


平安末期を生きた藤原清輔朝臣が、出世できずに嘆く友人を慰めるために詠んだ和歌だといわれている。これには、 清輔自身が若かりし頃は辛い日々を生きていたが、後に二条天皇に信頼され、辛かった昔を懐かしく、恋しく思い出されるようになったという背景がある。


私はこの和歌と出会ったことで、辛い現状を乗り越えた先には明るい未来があるのではないかと思えたと同時に、約1000年前を生きていた人々の心や日常に想いを馳せることに自分は「幸せ」を感じることができるのだと知ることができた。



心の底から、本気で、「死にたい」と思ったとき、そう思わせている環境が悪いのだと考えることができ、自分の精神力や意志の弱さを責めなくて済んだなら、自殺を選択する人の数はここまで多くはならなかったはずだ。そして「知る」ことを通して幸せになる手段をそれぞれが追求し、獲得できたなら、その数を「0」にすることができるのではないだろうか。


これを読んであなたはどう感じたか、そしてどう考えるか、教えてほしい。

あと、ホームすれすれのところで電車待つのは迷惑行為だし危険なので真似はしないでください。

Written by Marin Osawa


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4コメント

  • 1000 / 1000

  • Marin Osawa

    2019.02.13 03:43

    @Naoコメントありがとう! そう、本人も周りもそう認識できたらなと思う。 その道を選ばせてしまった、もしくは選ばされた要因が外的なものならばそれと同様に、「死にたい」と思った人にその道を選ばせないことも「外的」である私たちにできることだよね。
  • Marin Osawa

    2019.02.13 03:19

    @mi萩原朔太郎すごく好きだし、詩集も持ってるのに知らなかった!ありがとう!早速読んでみる!
  • Nao

    2019.02.13 03:13

    自殺者が出たというニュースを見ると、その自殺者を責めるようなコメントもあるが、確かに私もここに書かれていることと同じことを思っていた。自殺者が、私たちのそれより先に行けない恐怖の道を選んだのには 必ず何かしらの外的要因があって ただ単に自ら命を絶つ人なんていない。自殺者に対して、「苦労を乗り越えられなかった人」などと決めつけ、その自殺者が命を絶つ直前の心境を想像しようともしなかった人間がそう批判する価値は全くないと思う。